自転車ビジネス発展の歴史を紐解く。キーワードは「戦争」「コンテンツ」「環境」
身近な乗り物として親しまれてきた自転車。普段使いから競輪などのレース目的まで、さまざまな用途で使われており、もはやそれなしの生活など想像もできない。
しかし、いかにして自転車が普及してきたのか、その歴史や産業に関わってきた人々たちの思いについて知らない方も多いだろう。そこで今回は、自転車がいかにして生まれ、普及してきたのかを紹介したい。その歴史をビジネス視点で紐解くことで、他の分野で事業を展開している起業家の方々にとっても、何かしらヒントが見つかるはずだ。
個々人の努力と時代のうねり、消費者のニーズ、その3つがいかにして交わり、自転車ビジネスの発展を後押ししてきたのか。俯瞰して見てみよう。
世界初の自転車は貴族のおもちゃだった
1817年、ドイツの貴族、カール・フォン・ドライスが世界初の自転車を発表した。発明家でもあったドライスは、馬を引かない馬車なども発明していた。その流れで発明したのが、「歩く機械」と名付けられた自転車だった。フランス・パリで世界初の試乗会を開催したといわれている。時速12〜15kmほどのスピードがあり、当時の郵便馬車よりも速かった。地面を蹴って進むもので、ペダルはないものだった。当時、郵便の配達に使われたという記録もあるが、主に貴族のおもちゃとして利用されていたという。しかも貴族のおもちゃだけあって、高価すぎて庶民には手が届かないしろものだった。
世界初の「自転車」が世の中に出現し、しばらく経ったあるとき、「歩く機械」が修理に持ち込まれ、次のような依頼があった。
「修理のついでに、下り坂で足を置くところがほしい。つけてくれないか」
この客からの要望を受け、フランスの修理店のミショーは「足の置き場を回せば、機械が前進するのではないか」と思いつく。そして1861年、ペダルを付けた自転車が生まれた。
その後、1869年、フランス、ドイツの貴族の間では自転車レースが流行。このレースは、自分が運転するのではなく、レーサーに運転させて誰が一番かを競うもの。貴族たちは、お気に入りのレーサーにベット(賭ける)して、賭け事の一種として楽しまれた。この流れを受けて、現在でもヨーロッパでは自転車はレースの定番として楽しまれている。
ヨーロッパを中心に広まった自転車の利用は、貴族を中心に徐々に世界に拡大していった。
一方、日本はどうか。記録によれば、幕末には外国人居留地にて自転車が既に利用されていたという。1870年には、「この頃往来(道路)で自転車に乗る輩(やから)がうるさくてけしからん」という旨の御触れが出されていた。
当時の人たちは、自転車を所有するのではなく、専ら貸し自転車を利用していた。移動手段というよりも、外で乗り回して遊んでいたらしい。余暇の一部として自転車が利用されていたのだ。
同年に、竹内寅次郎という人物が東京府に提出した自転車製造販売願に「自転車」という言葉を日本で初めて記載し、「歩く機械」に「自転車」という名前が付いた。
また、1890年には、宮田栄助が日本で初めてダイヤモンドフレームを採用したセーフティー自転車を製造した。セーフティー自転車は、現代の自転車の原点とも呼ばれているタイプの自転車で、それまでの自転車よりも安全性を大幅に向上させたものである。ダイヤモンドフレームにチェーン駆動が付いている。
日本で自転車製造が進み始めると、自転車レースが東京・上野の不忍池で始まった。この頃には、日本にもいくつか自転車メーカーが出現しており、各メーカーはPRのためにプロレーサーを抱えるようになった。レースで優勝したレーサーの自転車はよく売れた。
同じ頃、まだ高価で庶民には手が届かなかった自転車であったが、現代の「バイクビルダー」たちのように、個人の趣味として自転車を製作する人も出てきた。日米富士自転車というメーカーも個人の自転車製作の延長で起業したものの一つだ。
しかしまだこの時期は、日本で自転車製造が本格化するにはほど遠く、国内に流通している自転車のほとんどが輸入車だった。
第一次世界大戦が日本国内の自転車製造熱を高めた
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、外国製の自転車の輸入が困難になった。しかし、自転車を輸入できないことがかえって国産の自転車を発展させることになった。日本国内で自転車を作ろうとする機運が高まり、東京、名古屋、大阪の3大都市を中心として数多くの自転車製造拠点が生まれた。東京では荒川区や江東区、板橋区、北区あたりだ。今でも自転車製造を営む業者が多い地域である。
業務用から徐々に一般市民が利用するように。第二次世界大戦が始まる頃には、裕福な家庭でなくとも、生活に余裕のあるレベルなら自転車を所有することができるまでに普及した。
第二次世界大戦後、1940年代後半〜1950年代にかけて、ついに国内初のサイクリングブームが起こる。小坂一也『青春サイクリング』を筆頭に自転車とともにある青春を謳い上げた歌謡曲が次々とヒット。その影響を受け、週末には多くの若者たちが合コン目的で集団サイクリングに興じた。
通勤・通学手段として。マンガと環境問題も普及を後押し
1960年代後半以降、郵便物の運搬に利用される乗り物がバイクに移行していった。同時に、家庭で利用されるメインの移動手段も、自動車にシフトしていった。しかし、自転車はここで衰退することはなかった。それは、あるマンガによるムーブメントが影響している。
1971年、人気マンガ雑誌『週刊少年キング』で『サイクル野郎』の連載が始まると、第二次自転車ブームが巻き起こる。マンガ内で描かれた自転車日本一周に影響を受け、多くの子どもたちが自転車で日本各地にツーリングに出かけた。
さらに同年、一般財団法人日本自転車普及協会が設立される。というのも、その頃、加熱する自転車ブームと、都心部に通勤・通学するために自転車を活用する人たちが、最寄り駅の駅前に不法駐輪することが問題となっていたためだ。同協会が自転車駐輪場の事業を始め、全国的に駐輪場が整備されていくこととなった。
なお、1970年代は、世界的にCO2の地球温暖化への悪影響が語られ始めた時期でもある。そこで「地球に優しい移動手段」として、これまでとは異なる角度から自転車に注目が集まった。
2020年度の自転車販売市場は過去最高を更新。いまだ進化し続ける自転車ビジネス
21世紀に入っても、自転車の発展は止まらない。
首都圏の郊外住宅地においては、自転車で駅前まで行き、そこから電車で通勤・通学するというスタイルが一般化する。一家に1台どころか、家族のひとりひとりが1台を所有し、生活の必需品として定着化した。特に子どもの送り迎えの手段としては必須アイテムとなっている。電動アシスト、補助席付、雨よけなど、自転車の利便性を向上させる技術も格段に進んだ。
2000年代に入ると、自転車の技術的な発展だけではなく、利用に関する「サービス」面での発展が進むことになる。自転車の利用がデジタル化され始めている。
例えば、駅前の不法駐輪を解決するために生まれた駐輪場。そのアイデアを発展させて、シェアサイクルサービスが続々と登場してきた。宮城県仙台市の「DATE BIKE(ダテ バイク)」を筆頭に、各地方自治体が、自治体内のどこでも自転車を借りられ、どこに返却してもいいシェアサイクル事業を展開している。
国内通信大手のNTTドコモは、それらの自治体主体の事業を発展させ、地域をまたいで自転車を借りて返せるシェアサイクルサービス「ドコモ・バイクシェア」を開始。さらに利用者の利便性が高まった。
自転車黎明期から人気を支え続けてきた自転車愛好家たちの存在も忘れてはいけない。「バイクビルダー」と呼ばれる愛好家たちが自作の自転車を作り、自転車文化センター主催「ハンドメイドバイシクル展」で各々の自転車を披露し楽しんでいる。
健康志向の高まりから、ロードバイクやマウンテンバイク、BMXなどのスポーツバイクの人気も堅調だ。
コロナ禍となった2020年度には、感染リスクの低い移動手段といわれ自転車が選好され、日本国内の自転車販売市場規模は2100億円を超え、過去最高を更新した。
米国の調査会社REPORT OCEANが発表したところによると、2020〜2027年の世界の自転車市場は年平均成長率7%で推移する見込みだという。
時代を超えて用途を変えながら、愛されてきた自転車。人がそこにニーズを見出す限り、自転車ビジネスはこれからも発展し続けるだろう。
自転車文化センター
自転車文化センター(以下、BCC)は、1981年にオープンした自転車についての総合的な情報提供施設です。古典自転車や各種部品などをはじめとする現物資料を20,000点以上所蔵するほか、約12,000冊の自転車に係る雑誌や図書・報告書なども所蔵して自転車に関する調査研究をされる方への情報提供を行っています。また、BCC内で通常展示のほかテーマ展示等も行っています。毎年冬季には、科学技術館を会場にハンドメイドバイシクル展を主催しています。